「THE TWILIGHT ZONE」と言えば、ロッド・サーリングを抜きにしては語れない。彼こそはTZのクリエイターであり、ナレーターであり、ホストであり、
プロデューサーであり、156話中92篇に及ぶエピソードのシナリオライターでもあったのだから。

Rod Serling

Rod Serling
Dec.25,1924-June.28,1975

ロッド・サーリング。
本名ロッドマン・エドワード・サーリング(Rodman Edward Serling)は1924年のクリスマスの日
後の彼の言葉によれば、『(包装されずに)ムキ出しのクリスマスプレゼント』として
ニューヨーク州シラキューズで生まれた。

米国における「テレビドラマの第1期黄金時代」、すなわち1950年代の半ば以降最も活躍し、
また成功した脚本家の一人である。
が、彼がエミー賞・オリジナル脚本賞を3年連続で受賞した3本の作品、
「大会社の椅子」“Patterns”('55)
「重量選手へのレクイエム」 “Requiem for Heavyweight”('56)
「コメディアン」 “The Comedian”('57)
に関しては我が国においては残念ながら、
「知られた作品」ではない。

「ミステリー・ゾーン」を除いて彼の手掛けた作品として知られているのは、むしろ
「猿の惑星」“Planet of the Apes”('67)
の脚色だろう。
彼はマイケル・ウィルソンと共にクレジットされているが
実際にはピエール・ブールの原作を基に彼が書いた3つの草案が、
製作コストが掛かり過ぎると判断された為、
ウィルソンがリライトしたものである。

これは最早「伝説」であるが、「TWILIGHT ZONE」のネーミングの由来に関して、
こんな逸話が伝えられている。
第2次世界大戦中、米陸軍第11空挺師団第511パラシュート部隊の一人として参戦、
フィリッピンに駐留していた彼がパイロットから伝え聞いた話
「機が着陸する直前、地平線が視界から消える瞬間を
“Twilight Zone”
と呼ぶ」というのが終戦後も彼の頭の片隅に記憶として残っており、
それをシリーズの総タイトルとした・・・というのが、
その「伝説」である。

1959年10月2日、米CBSより
「そこに誰もいなかった」“Where is Everybody?”
が放送されて以来、1964年6月19日放送の
「水に消えた影」“The Bewitchin' Pool”
をラスト・エピソードとするまで
「The Twilight Zone」は155本を製作し、フランスから買い付けた1本を加えて
足掛け6年、全156回の放送を数えた。
その中で彼が脚本を手掛けたエピソードは
オリジナル・非オリジナルを含めて92篇にもなる。
そして、彼の4度目のエミー賞受賞は1960年、
「The Twilight Zone」
における彼の優れた仕事に対して与えられたもの・・・つまり、
脚本のみならず企画・製作・ナレーション・ホストの1人5役の大仕事に対してであり、
更にその翌年、1961年にも
「The Twilight Zone」
として2度目の受賞に輝いている。
無論、ヒューゴー賞3年連続受賞等、その受賞はエミー賞だけに止まるものではないが、
彼の経歴を考える時、「TV界における彼の一定の評価」として、エミー賞受賞は
特別な意味合いを持って紹介されるべきである。
その後、“Bob Hope Presents The Chrysler Theatre”の一篇 “It's Mental Work”で
彼は6度目となるエミー賞を受賞している。

「The Twilight Zone」終了後、前出の「猿の惑星」の脚色や、幾つかのTVドラマの脚本を
手掛けた後の1969年、「四次元への招待」“Night Gallary”(米・NBC)
で、彼は再び我々の前に「馴染みの顔」として登場する。
全90話が製作されたが、
「The Twilight Zone」程の支持は得られなかった。

彼がテレビドラマにゲストとして登場したのは、“Jack Benney Show”における
「The Twilight Zone」のパロディーが有名である。「誰も自分を知らない世界」に迷い込んだ
主人公の前に現れた彼は、こう言ってのける。
「私はミスター・ゾーン(Mr.Zone)。トゥワイ(Twi)と呼んでくれたまえ」
・・・
そして、こちらはあまり知られていないが、我が国でも放送された
「警部アイアンサイド」“Ironside”の中の一篇、ジョディー・フォスターが子役で出演した
「小さな魔女」“Bubble,Bubble,Toil And Murder”にも
スペシャル・ゲストとして出演している。

1975年5月、軽い心臓発作を起こした彼は入院し、その翌月心臓の冠状動脈バイパス手術の為
ニューヨークのロチェスターの病院に再度入院、10時間に及ぶ手術の後、合併症の為
帰らぬ人となった。

1975年6月28日。

50歳6ヶ月と3日。あまりに短過ぎる彼の生涯は今も、そしてこれからも永遠に
「The Twilight Zone」
の名と共に語り継がれていくだろう。

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